職業の選択 FF14 気が付いたら、「召喚士」になっていた。 決して「ヒーラー」をあきらめたワケではない。現実を直視したまでである。 「巴術士」であれば「攻撃」と「回復」、その両方の練習ができるであろうと考え、実際に動かしながら、キーボード&マウスの操作に慣れていこうと思ったのである。 これまでずっと「召喚士」をしていたので、スキルの特性はある程度理解できている。慣れないジョブで練習をするよりも、効率が良いという思いもある。 ただ「機工士」に続き、なんでまた同じコトを別サーバーまで来てやっているのかという、よくわからない状態に陥っている。 主にF.A.T.Eで練習しているのだけれども、「カーバンクル・トパーズ」までくれば、「巴術」は非常に楽である。 自身も含め、カーバンクルとチョコボを引き連れて歩けば、「タンク」も「ヒーラー」もそろう、簡易的なひとりパーティの完成である。 こうなれば、多少推奨レベルが格上のF.A.T.Eなどでも、誰かを待たなくても臆するコトなく突っ込めてしまうのだから、「ぼっち」にさらに拍車がかかる。 カーバンクルとチョコボという、“最高の友だち”さえいれば、「気の合う仲間と出会えるエオルゼア」などという、世迷い言、甘言、都市伝説などに、心を乱されるコトもないのである。 ヒトとのつながりは、同時に新たな制約を生む。“真なる自由”を求めるならば、“孤独”を誇れ! 敬え! 貴べ! 見せつけろ! 別に、強がってはいない。 なんだか、自分自身が望むと望まざるとにかかわらず、このゲームに限らず、最終的には「キャスター(魔法職)」に落ち着くコトが多い。 ボク自身が、「魔法職のほうが動きやすい」という、変な特性もあるのだけれども、そのほかには「ほかにするヒトがいない」「周りに勧められて」などという理由も多かった。 だが、ボクとしては“好き”なのは「物理職」の方であり、「物理職」に対して“憧れ”もある。ボクの「Shinryu」での職業変遷(モンク→忍者→機工士→Now!!)を見ればわかると思う。 「職業の選択は自由なのだから、好きなのを選べばよい」のだけれども、どうもこの“自由の行使”は“個人の特性”を加味してはいない。 これは、“やりたいコト”と“できるコト”が、異なるヒトがいるというコトである。 「やりたいコトを選択して素直にできる」ヒトが、一番“幸福”であるコトは間違いない。だが、「やりたいコトをするために“苦労”する」のは、はたして真の“幸福”と言えるのだろうか。 時にヒトは、「やりたいコトをするための“苦労”は苦労ぢゃない」「それによって人生が充実している」などという“錯覚”に陥ることがある。そして、それをことさら“美徳”のように扱い、周りも応援するコトを“美徳”と解釈する。 だが、そのヒトが「苦労してでもやりたいコト」を、ほかのヒトは「苦労無しでもできている」という事実と、逆に「自身がやりたいコト」とは異なっていても「楽にできるコト」が、ほかのヒトには「努力しないとできないコト」かもしれない。 それは、しばしば“才能”という言葉に置き換えられる。 幸福論を語るのであれば、「苦労するコト」なのか「楽にできるコト」なのかを考えれば、その違いは一目瞭然である。 これは、リアルでの職業選択にもあてはまる。 時にヒトは、職業を選ぶ際、「やりたいコトであるかどうか」を基準に選ぶ向きがある。 だが、ボクに言わせれば、真に“幸福”を求めるならば、「やりたいやりたくない」ではなく、本人の「向き不向き」「できるできない」で選ぶべきであると思っている。 今の仕事が決して「やりたいコト」ではなくても、「楽にできる」のであれば、それは“才能”なのだから続けるべきであり、「やりたくても苦労している」のであれば、「向いているもの、できるもの」に変えるべきだと思っているのである。 決して、“夢”を否定しているワケではない。 だが、「できないコト」をやり続けるよりも、「できるコト」をする方が、“やりがい”を感じる。これこそが、“幸福である”と言いたいのである。 話がズレにズレたが、気にしたら負けである。 思い返せば、スマホのソシャゲの数々でも、ガチャで「強い武器が引けた」ときは、「魔法の杖」的なものであったし、「強いキャラが引けた」ときは、魔法職ばかりであり、「闇属性」であったりする。 さらに思い返せば、サッカーや野球のポジションは「魔法使い」であったし、クラスでの役割分担では「まほうつかいがかり」であったし、生まれて初めて話した言葉は「イオナズン」であった。 もはや、ボクが「魔法職」に戻るのは、人生においての“既定路線”なのかもしれない。 More from my site削除という英断命の値段アニマウェポンを作る。平常への渇望ブログ、移行完了の件。今更ながら、ヴォイドアーク。 Tweet Pocket Author: helio Shinryuサーバーで、ララフェル召喚士として、がんばると決めた! 「FF14 BLOG ANTENNA」の運営もがんばっちょりまっする! 2016年10月24日 0
職業の選択
気が付いたら、「召喚士」になっていた。
決して「ヒーラー」をあきらめたワケではない。現実を直視したまでである。
「巴術士」であれば「攻撃」と「回復」、その両方の練習ができるであろうと考え、実際に動かしながら、キーボード&マウスの操作に慣れていこうと思ったのである。
これまでずっと「召喚士」をしていたので、スキルの特性はある程度理解できている。慣れないジョブで練習をするよりも、効率が良いという思いもある。
ただ「機工士」に続き、なんでまた同じコトを別サーバーまで来てやっているのかという、よくわからない状態に陥っている。
主にF.A.T.Eで練習しているのだけれども、「カーバンクル・トパーズ」までくれば、「巴術」は非常に楽である。
自身も含め、カーバンクルとチョコボを引き連れて歩けば、「タンク」も「ヒーラー」もそろう、簡易的なひとりパーティの完成である。
こうなれば、多少推奨レベルが格上のF.A.T.Eなどでも、誰かを待たなくても臆するコトなく突っ込めてしまうのだから、「ぼっち」にさらに拍車がかかる。
カーバンクルとチョコボという、“最高の友だち”さえいれば、「気の合う仲間と出会えるエオルゼア」などという、世迷い言、甘言、都市伝説などに、心を乱されるコトもないのである。
ヒトとのつながりは、同時に新たな制約を生む。“真なる自由”を求めるならば、“孤独”を誇れ! 敬え! 貴べ! 見せつけろ!
別に、強がってはいない。
なんだか、自分自身が望むと望まざるとにかかわらず、このゲームに限らず、最終的には「キャスター(魔法職)」に落ち着くコトが多い。
ボク自身が、「魔法職のほうが動きやすい」という、変な特性もあるのだけれども、そのほかには「ほかにするヒトがいない」「周りに勧められて」などという理由も多かった。
だが、ボクとしては“好き”なのは「物理職」の方であり、「物理職」に対して“憧れ”もある。ボクの「Shinryu」での職業変遷(モンク→忍者→機工士→Now!!)を見ればわかると思う。
「職業の選択は自由なのだから、好きなのを選べばよい」のだけれども、どうもこの“自由の行使”は“個人の特性”を加味してはいない。
これは、“やりたいコト”と“できるコト”が、異なるヒトがいるというコトである。
「やりたいコトを選択して素直にできる」ヒトが、一番“幸福”であるコトは間違いない。だが、「やりたいコトをするために“苦労”する」のは、はたして真の“幸福”と言えるのだろうか。
時にヒトは、「やりたいコトをするための“苦労”は苦労ぢゃない」「それによって人生が充実している」などという“錯覚”に陥ることがある。そして、それをことさら“美徳”のように扱い、周りも応援するコトを“美徳”と解釈する。
だが、そのヒトが「苦労してでもやりたいコト」を、ほかのヒトは「苦労無しでもできている」という事実と、逆に「自身がやりたいコト」とは異なっていても「楽にできるコト」が、ほかのヒトには「努力しないとできないコト」かもしれない。
それは、しばしば“才能”という言葉に置き換えられる。
幸福論を語るのであれば、「苦労するコト」なのか「楽にできるコト」なのかを考えれば、その違いは一目瞭然である。
これは、リアルでの職業選択にもあてはまる。
時にヒトは、職業を選ぶ際、「やりたいコトであるかどうか」を基準に選ぶ向きがある。
だが、ボクに言わせれば、真に“幸福”を求めるならば、「やりたいやりたくない」ではなく、本人の「向き不向き」「できるできない」で選ぶべきであると思っている。
今の仕事が決して「やりたいコト」ではなくても、「楽にできる」のであれば、それは“才能”なのだから続けるべきであり、「やりたくても苦労している」のであれば、「向いているもの、できるもの」に変えるべきだと思っているのである。
決して、“夢”を否定しているワケではない。
だが、「できないコト」をやり続けるよりも、「できるコト」をする方が、“やりがい”を感じる。これこそが、“幸福である”と言いたいのである。
話がズレにズレたが、気にしたら負けである。
思い返せば、スマホのソシャゲの数々でも、ガチャで「強い武器が引けた」ときは、「魔法の杖」的なものであったし、「強いキャラが引けた」ときは、魔法職ばかりであり、「闇属性」であったりする。
さらに思い返せば、サッカーや野球のポジションは「魔法使い」であったし、クラスでの役割分担では「まほうつかいがかり」であったし、生まれて初めて話した言葉は「イオナズン」であった。
もはや、ボクが「魔法職」に戻るのは、人生においての“既定路線”なのかもしれない。
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